虹色鉱石
月夜のカストル
私は、もう、ずっと夜を追いかけていた。
いや、違う。
夜を追いかけていた彼を、追いかけていた。
……今も。
出会ったのは子供の頃。
田舎の旧家に法事で訪れたのがきっかけだった。
私の遠い親戚の彼は私より七つ年上で、小学校に上がったばかりの私には大人に見えた。
その家の長男の彼は、都会育ちの私が知らないことを沢山知っていた。
大人達の中で退屈していた私に、田舎の遊びの話を沢山聞かせてくれた。
「やってみたい!」と私が言うと、笑って「また遊びにおいで」と言ってくれた。
夏休み。私は再び田舎を訪れた。
彼は約束通りに、私を都会では経験できない遊びに誘った。川で泳いで魚釣り。雑木林でカブトムシ捕り。おやつは井戸水で冷やしたスイカ。
どれもわくわくした。が、幼い私の心に一番印象に残ったのは、二人で星を見たことだった。
「新月だから星が良く見えるよ」
夕飯が終わってから、彼は庭に望遠鏡を持ち出して私を誘った。
「ほら、見てごらん」
言われるままにレンズを覗いた私は、息を吞んだ。
――光が、広がった。
ガスの炎みたいな青、新雪のような眩い白、蝋燭の揺れる灯に似たオレンジの光。丸く切り取られた底無しに暗い視界の中で無数の光が、力強く、または儚げに、ちかちかと瞬いていた。
私は彼を見た。彼は楽しげに笑った。
「綺麗だろう? 僕が一番綺麗だと思うものを、見せたかったんだ」
どきりとした。星を見た時よりも。
柔らかいその声。綺麗、という言葉の響き。見せたかった、と微笑む弧を描く唇。そして、星の光を受けて静かに輝く、私を見つめる黒々とした瞳。
そういうものが全部突然に、月の無い温かい夜の中で匂い立つようにふわりと浮かび上がってきた。私はその、夢の中みたいな現実味のない光景に驚いて胸を押さえた。
「……うん」
頷くのがやっとだった。
「とても綺麗、だね」
苦労して声を絞り出し答えると、彼はまた、美しく笑った。
夏休みが終わった。町に戻った私は図書館に通うようになった。
子供向けの星や宇宙の本を探し浴びるように読んだ。お小遣いで双眼鏡を買った。
冬休みが来ると田舎へ行った。「また星を見たい」彼にそう電話をかけて。
彼は喜んで私に付き合ってくれた。昼はこたつで宿題をして過ごし、夜は二人で空を仰いだ。
「なんで星が好きなの?」
双眼鏡を覗いたまま私は尋ねた。視界ではプレアデス星団が青く華やかに燃えている。
「それは……」
彼の視線が私を捉えたのを感じた。私は空を見続けた。
「宇宙は、広いだろう?」
彼は一度言葉を切った。ふうっと息を吐いた音が私の耳に届いた。彼の眼差しが、凛と冷え切った夜空に向いた。
「なのに同じ星は一つも無い」
「うん」
私は声で頷いた。双眼鏡を動かす。今にも燃え尽きそうなベテルギウスの赤い輝きが飛び込んでくる。
「自ら輝く星もそうでない星も、全て違っていて、綺麗だ。……だから僕は、星が好きなんだ」
彼の答えは難しかった。ただ彼が星を、夜空を愛しているのは良く分かった。
「そうなんだね」と私が言うと「そうなんだ」と彼は返した。そして会話はそれきりになって、私達は無言で星を見た。
――その時間は、私の宝物だった。
何年か経った。私は長期休暇には欠かさず彼を訪ねて一緒に星を見た。彼は撮影機材も持っていて天体写真の撮り方も教えてくれた。彼が撮った色鮮やかな夜の写真に感化された私は、自分でも撮りたいと機材を両親にねだった。しかし機材は全部で何十万円もしたので却下され、子供の私は諦めざるを得なかった。
中学生になると、私は彼の家に行くだけではなく地域の天文学サークルにも出向くようになった。そのサークルは雰囲気が良く、彼との時間程ではないが居心地が良かった。
私はそこでの話も彼にした。彼はいつも楽しげに私の話を聞いてくれて、それが嬉しかった。
そして私が中学三年生の春休み。いつものように彼の家を訪ね、いつもどおり二人並んで夕闇の空を眺めていた時。私は前から考えてきたことを彼に打ち明けた。
「沖縄へ行こうよ。二人で」
彼は驚きの表情を浮かべて私を見た。私は笑った。
休みが終われば私は高校生。アルバイトが出来る。お金を貯めて旅行しよう? 南十字星を見ようよ。二人で行ったらきっと楽しい。
私は自分の思い付きに舞い上がっていて、そう一方的にまくし立てた。彼は暫しの沈黙の後、じっと私の顔を眺めた。静かに目を細くした。私の好きな、あの温かい柔らかな声で答えた。
「ごめん。僕は、君と一緒に行けない」
彼がなぜそう答えたのか、皆目見当がつかなかった。
私は悲しくなってそれっきり押し黙った。そして彼と口を利くことなく、次の日の早朝、逃げるように自宅へ帰った。
それから一週間程経って、彼から私宛に荷物が届いた。『取扱注意』ラベルが張られた大きな箱を開けると、望遠鏡、一眼レフカメラと望遠レンズ、赤道儀……彼が大事に使っていた機材が全部入っていた。
そして箱の底には真っ白な封筒が眠っていた。開けるとやはり染み一つ無く眩しく白い便箋が一枚。
そこには、
『君に使って欲しい。使ってください』
それだけ書かれていた。
次の日、私は彼の家に向かった。大切な物をなぜ突然私に送り付けたのか。怒りに似た当惑に震えながら辿り着いた彼の家は、空っぽだった。玄関に立てかけられた『売家』と書かれた真新しい不動産屋の看板が、明るい春の日差しにやけに無機質に光っていた。
慌てて近所の人に尋ねると「あの家族なら引っ越したよ」と言われた。
彼の行方は結局分からなかった。
私は彼に譲られた機材を使うことにし、暇さえあれば夜空を見上げた。
勉学も欠かさず、大学では天文学を専攻した。
そして。
「時間です」と声をかけられ、私は目を開けた。椅子に掛けて少し休憩するだけのつもりがうたた寝をしてしまったらしい。
「教授。機器の設定終わっています」
声をかけてくれた相手が言う。若いのに有能な研究者だ。私は微笑み頷く。
「ああ、今行くよ」
彼に伝えたい。
私は今もあなたを追いかけている。共に見上げた空を見つめ続けている。あなたが綺麗だと言った星々を深く理解する為に。
私は目的の星へと測定機器を向ける。
夜が、始まる。