虹色鉱石
月夜のカストル -Side α-
僕は、もう、ずっと夜を追いかけていた。
……ずっと、ずっと、前は。
小さな頃から僕は星が好きだった。晴れていれば、夜空を見上げれば、いつでも見える何の変哲もない星空。それが、僕は大好きだった。
「天体観測? 星なんか見て何になるんだよ? 夏は蚊に刺されまくるし、冬はめっちゃ寒いのに」
友達は皆そう言って、僕の趣味を嗤った。無意味だと。
子供のうちは、なぜ分かって貰えないんだろうと悲しく思った。一緒に、並んで星を見てくれる人が欲しかった。けれど、中学生になって交遊関係が広がっても理解してくれる人はいなかった。だから諦めた。分かって貰えなくても良い。夜空の美しさを知るのは、僕独りで良いのだと。
そう考えるようになった頃、あの子に出会った。
曾祖母の法事の時、彼は家にやってきた。僕のはとこで、つい一月前に小学一年生になったばかり。華奢で色白。右の目尻に目立つ泣きぼくろがある、中性的な印象の子だった。
その頃の僕の親類には殆ど子供がいなかった。あの子は昔話に花を咲かせる大人達の横に、ぽつねんと座っていた。法事後の食事会場、その隅で、オレンジジュースのグラスの氷をストローでカラカラと、物憂げにひたすらにかき混ぜていた。
その様子が寂しそうで。どこか僕に似ていて。思わず声をかけた。
「こんにちは。僕は――。君は?」
出来るだけ明るく優しく聞こえるように声を作った。僕の名前を言うと、彼は驚いたようにオレンジジュースから顔を上げて、それからおずおずと答えた。
「――、――」
苗字は僕と同じ。あまり他所では聞かない珍しいものだ。一方の下の名前はごくありふれたもの。でもぴったりの、良い名前だと感じた。
「遊ぼう? 大人は昔の話ばっかりで、退屈だろう?」
「え、でも……」
どうやって? とあの子は言った。あ、と僕は声を漏らした。小学一年生が喜びそうな、気の利いた玩具など、ここにはない。トランプなり何なり、持ってこれば良かった。
「それじゃ何か話そう。君が好きなものを聞かせて? 食べ物でも、マンガでも、動物でも、好きなものなら何でも良いよ」
「えぇと……」
彼の視線がゆらゆらと揺れる。自分から喋るのは苦手なのか?
「僕は、夏に川で泳ぐのが好きだよ。橋の上から一気に、頭から飛び込むんだ。冷たい水が気持ち良くってね……」
仕方なく自分から話を振ると、彼の目の色が変わった。焦げた茶色の光彩にぱっと赤みが差す。
「川で泳げるの!?」
「泳げるよ。泳いだこと無い?」
「無い! だってあんなどろどろの臭い所で泳ぎたくないよ!」
声のトーンが上がった。聞けば、家の傍に川があるけれどそこの水は汚くて、泳ぐどころか触るのも躊躇われるくらいなのだそうだ。泳ぐのは好きだけど、プールは塩素の臭いがきつくて目が痛くなるし、海の水は辛くて染みる。だから綺麗な川で泳げるなら、泳いでみたい! 彼は僕の方を食い入るように見ながら言った。
「じゃあ、魚釣りは? 虫取りをしたことは? 木苺や桑の実や、アケビを食べたことは?」
川で泳いだことが無いのなら、何ならしたことがあるのだろう? 興味を引かれるままに色々聞いてみると、僕が尋ねたことは全て「知らない」と彼は首を振った。それから、
「でも、全部、おもしろそう! やってみたい!」
僕をひたと見つめて、そう答えた。くるくるとよく変わる表情も、明るい子供っぽい高い声も、好ましいものに感じられた。僕は思わず笑みをこぼしていた。
「夏休みになったら、またおいで。一緒に遊ぼう」
「うん! 約束だよ!!」
梅雨が明けて夏になった。まだ小さいから「約束」なんてすっかり忘れているだろうと思っていたら、七月の頭に電話があった。「夏休みに遊びに行きます! よろしくお願いします!」受話器の向こうから聞こえる声は、相変わらず明るくて意外にも礼儀正しかった。
そして約束の日、きっちり時間通りに彼は家にやってきた。僕は彼を色々な場所へ遊びに連れていった。沢に泳ぎに行き、川釣りのポイントにも寄った。別の日には雑木林を回って虫かごをいっぱいにした。何をしても何を見ても、彼は弾けるように笑って歓声を上げた。月並みな表現だが、太陽みたいな子だな、と思った。なら、きっと……。
その晩、夕食の後に僕と彼は庭に出た。室内の光が漏れてこないように雨戸を全部きっちりと閉めて、マッチを擦り蚊取り線香を焚く。夕立の名残の微かな湿り気と、薄っすらした煙の匂いの中で三脚に望遠鏡をセットして、天の川の中心、いて座の方向へ向ける。
「何してるの?」
忙しく動く僕を見ながら、彼は不思議そうな顔をしている。接眼レンズを覗く。ピント調整……よし、準備OK。僕は目を細めて手招きした。
「新月だから星が良く見えるよ。……ほら、見てごらん」
「星?」
彼はふと空を見上げ、それから望遠鏡に近づいた。左目を瞑って右目をレンズに押し当てた。
数秒後、ひゅうっと彼が小さく息を吞む声が聞こえた。華奢な肩がぴくりと震えるのが薄闇の中に見えた。それから彼はおもむろに僕の方へ向き直った。小さなふっくらした唇はぼんやりと半分開いていて、元から大きな茶色の目は零れ落ちそうなほど丸くなっていた。
僕は、笑った。
僕は家族や友達に言われたことがある。星を見ている時は放心状態だよね、と。だらしなく口が半開きでみっともない、と。
みっともないなんてあるものか。この上なく美しく尊いと感じたものの前では、人は総じて無力なものだと、昔から言うじゃないか。凄いな、素晴らしいなと圧倒されて、静かに頭を垂れるか、ぽかんと放心するか、出来るのはそれくらいだと思うのだけれど。
「綺麗だろう? 僕が一番綺麗だと思うものを、見せたかったんだ」
自然に口から言葉が滑り出た。そう。僕は本当はこれを見せたかった。何を見せても笑ってくれる彼に、自分が好きなものを、まるごと全て肯定して貰いたかった。
「…………」
僕の声は聞こえていたのだろうか? 彼は、暫くその表情のまま固まっていた。それから思い出したように瞬きをした。子供らしい長い睫毛がぱさりと揺れて、彼は胸元に手をやってぎゅっとTシャツを握り締めた。ゆっくり「うん」と頷いた。星明かりの中でも分かる程に頬が赤く上気している。
「とても綺麗、だね」
思っていた通りの返事が返ってきた。僕は嬉しくなって、また、笑った。
彼は天体観測をとても気に入ってくれたようだった。家に帰った後に、彼の両親から「あれから星や宇宙の話ばかりしているんですよ。とても楽しかったらしくて」と連絡があった。冬休み前には「また星を見たいから、遊びに行っていい?」と電話がきた。休みになってやってきた彼は、お小遣いを貯めて買ったというぴかぴかの双眼鏡を、得意そうに見せてくれた。
それからというもの、夏休みや冬休みに彼が僕の家に星を見にやってくるのが常になった。僕よりずっと年下なのに彼はとても賢く勉強熱心で、あっという間に僕が及びもつかないような知識を身に着けてしまった。せめてもの抵抗として、僕はバイト代をはたいてカメラと望遠レンズを買った。未成年の彼には親の援助がなければとても出来ないであろう、天体写真を沢山撮った。現像してアルバムに収めた写真の数々を見せると、彼は時間をたっぷりかけて、うっとりとそれらを眺めた。それから、ぜひ撮り方を教えて欲しい、と僕にせがんできた。
僕は笑顔で、出来得る限りの親切さをもって彼に教えた。今思えば、そうすることで自分を満足させていたのだと思う。
そして、中学生になった彼は「天文サークルに入ったんだよ!」と嬉しそうに報告にも来た。
「沢山人がいるんだ。おじいちゃんくらいの人もいるし、小さい女の子もいる。みんな星が大好きで、月に何回か集まって星を見るんだ。科学館やプラネタリウムに行く時もある。とても楽しいよ!」
思春期に到達して背丈も僕と変わらない程に伸び、華奢だった体格もしっかりとして大人らしくなった彼だったが、中身はいつまで経ってもどこか子供だった。鳶色の目をきらきらとさせて、放っておくと好きな星について、いつまでも熱っぽく語る。
一方の僕は、彼のような熱量は既に持っていなかった。好きなことには変わりがないのに、彼に情熱の全てを吸い取られて持っていかれてしまったような、そんな気がしていた。
そんなある日、僕は真剣な顔をした両親から大変な話を聞かされた。父は、ある人物の連帯保証人を引き受けていたのだが、その人が事業に失敗して行方をくらましてしまった。その人の借金を全て肩代わりしなければならなくなってしまい、持っている資産を全て売却し返済に宛てなければならなくなった。つまり、今住んでいる家も土地も、家財道具も一切合切を売り払う、と両親は言った。
この時、僕は大学四年生だった。成人済みであるし、学費は幸い既に払い終えてあった。「僕には関係のない話」で切り捨てることも出来た。
けれど僕は両親が歳を取ってから産まれた一人っ子で、それなりに大切に可愛がられて育てられてきた。今度は僕が二人を養わなければ、と思った。
より良い待遇と賃金を求め、僕はこの田舎から遠く離れた町の会社に就職を決めた。その会社の家族寮に両親と共に入る手続きを済ませた。
そこまでを無我夢中でやって卒業式も無事終えた時、僕は今まですっかり忘れていたことを思い出した。彼だ。何も連絡していなかった。きっと、何も知らずにニコニコと楽しそうに遊びに来るだろう。
この家は売りに出され、僕は遠くへ引っ越す。きっと忙しく働かなければならないから、君と星を見るのはこれで最後。顔を見たら言おう。そう思っていた。
数日後、彼がいつものようにやってきた。二人並んで夜の庭に出て、さあ言わなければと彼の方を向いた時、僕より早く彼が口を開いた。
「沖縄へ行こうよ。二人で」
沖縄? なぜ、今、沖縄?? 僕は目を見開いた。彼は身振り手振りを交えて楽しそうに喋り続ける。彼曰く、日本では沖縄でしか見られない南十字星を見たいのだそうだ。高校生になったらバイトを頑張ってお金を貯めるから、二人で行こう、と。
きっと楽しい! そう笑う無邪気な顔を見つめながら、僕は目を細めた。ああ、相変わらずだ。真っすぐで眩しくて、子供っぽくて、……なんて残酷なんだろう。
「ごめん。僕は、君と一緒に行けない」
僕は、ゆっくりとした声で答えた。彼は豆鉄砲でも喰らったみたいに一瞬ぽかんとして、それからその顔をくしゃくしゃに歪めた。そしてそれからは一言も言葉を発することなく、朝には彼の家に帰っていってしまった。
「……相当ショックだったんだろうな……」
彼が行ってしまってから、自室の整理をしつつ僕は独りごちた。それも当然だ。よくよく思い出してみれば、僕は今まで一度も彼の頼みを断らなかった。いつも穏やかに彼の話に耳を傾け、微笑みながら頼みごとを聞いた。……それは、何故か。
傍らに置いた望遠鏡にそっと手を伸ばして触れる。分かっている。
僕は、今も彼を好ましく思っている。いつまでも子供らしかろうが、空気が読めなかろうが、それでも好きなのだ。
僕は、大きな丈夫な段ボール箱に望遠鏡を梱包して入れた。カメラにレンズに三脚、その他色々な機材も一つ一つ丁寧に収めていく。会社の寮は狭い。持っていくものは必要最低限にしなければいけない。一眼レフや望遠レンズはそれなりの値段で売れるだろうから、お金に変えようかとも思った。
「でも、きっと……」
全部の機材を箱に収めてから、僕は封筒と便箋を出した。彼に手紙を書こうと思った。家の事情、引っ越すこと。天体観測はもう止めようと思うこと。言えなくてごめん。
「…………」
ペンを走らせる。でも僕の中にわだかまるものは上手く文字になってくれなかった。目頭が熱くなって視界がぼやける。ぱた、ぱたた。液体が便箋に跳ねる音がする。
震える手を必死に宥め、何枚もの便箋をぐちゃぐちゃにしながらやっとのことで書き上げられたのは、たった一言だけだった。
『君に使って欲しい。使ってください』
沢山、沢山、時間が流れた。
僕は必死に働いた。両親と暮らし、やがて見送った。それを機に貯金で小さなマンションを買ってそこへ移り住んだ。
そして休日の自宅のリビングでくつろいでいた時に、急にそれは聞こえてきた。何気なくつけていたテレビニュースのアナウンサー。その声が、言った。
「……大学、……研究室の、――教授のグループが……の観測に成功しました。世界初の快挙であり、宇宙の成り立ちに迫る重大な発見として……」
『――』。珍しい。僕と同じ苗字だ。そして思い至る。
「え? まさか?」
ポケットからスマホを取り出した。『――教授』。検索するとすぐにヒットした。ある大学で天文学を研究している人物だそうだ。どきりと心臓が跳ねる。大学の研究室のページに飛び、プロフィール写真を見ると一目で分かった。僕と同じように髪には白いものが混じり始め、顔にも細かな皺があったが、間違いない。色白の肌と、真っすぐこちらを見る日本人にしては明るい色の目。その右目の目尻にある濃い泣きぼくろ。そのページで紹介されていたのは、彼だった。
「……研究者になってたのか」
彼らしい、と思った。知らないうちに微笑んでいた。きっと毎晩、大好きな星空を飽きずに見上げているんだろう。その様子を想像すると胸の奥が温かくなった。
彼について調べると、研究の傍ら、教育に熱心に打ち込んでいるのが分かった。一般の人、特に子供向けの宇宙の本を何冊も書いていた。講演活動もしていた。僕は彼が書いた本を全て買い求めて出来る限り講演会に足を運んだ。広く薄暗いホールの壇上で明るいスポットライトを浴びながら熱心に話す彼の姿は、夜空の一等星さながらだった。
そんな風にして何年かが過ぎた。ある時を境に彼は講演活動をぱたりと止めてしまった。研究でよく海外にも足を運んでいるようだったし、また大きなプロジェクトにでも参加しているんだろうと思っていた。
でも、そうではなかった。
ある冬の、晴れた日だった。全く突然に、彼が代表を務める研究室のSNSが彼の訃報を知らせてきた。難しい病気を患っていて、今朝方永眠したと。
目を疑った。
待て。訃報? なんだそれ? なんだそれは?? 理解が追い付かなかった。
だって。だって彼は。僕より年下だ。僕はまだぴんぴんして毎日働いてるというのに。なぜ?
矢も楯もたまらず、僕は仕事の休みを取り彼の葬儀会場に向かった。大学教授の葬儀なだけあってとても広くて大勢の人がいた。入口から中を覗くと、設えられた祭壇に沢山の花に囲まれるようにして彼の写真が飾られていた。嘘だと良いと思っていたが嘘ではなかった。耳を澄ますと、あちこちですすり泣きの声が響いてるのが聞こえた。生前の彼の人柄の良さが伺えた。
「…………」
葬儀の開始まではまだ少し時間があるようで、参列者たちは遺族に声をかけたり棺を覗いて最後の挨拶をしたりしていた。僕はその様子を会場の端に立って眺めた。彼の顔を見ようという気は起きなかった。見てしまったが最後、きっと一生忘れられない。それなら元気だった頃の彼を覚えていよう。そう思った。
だんだん会場の人の流れが慌ただしくなってきた。もうすぐ葬儀が始まるのだろう。最後まで見届けると泣いてしまいそうだ。僕は数秒間目を閉じて口の中で別れの言葉を呟き、そっと踵を返した。その僕に、
「待ってください」
声をかけた人がいた。振り返ると、そこには青年が一人。色白で明るい色の目で、一瞬彼かと思った。でも目尻にほくろがない。誰だ? 訝しんで片目を眇めると相手は静かに微笑んで、僕の下の名前を呼んだ。
「――さん。はじめまして」
それから青年は、自分は彼の息子だと名乗った。芳名帳にお名前があったので、お話をしたくて探していました。父に会いに来てくれてありがとうございます。深々と頭を下げてくるので僕も慌ててお辞儀をした。ご丁寧にどうも。でも、話とは? 尋ねると青年はゆっくり瞬きをした。
「生前、父がよくあなたの話をしていたんです。とても可愛がって貰ったと言っていました。今の自分があるのはあなたのお陰だと。――父に代わってお礼を申し上げます。どうもありがとうございました」
「『あなたのお陰』? いや、僕は何も……」
「いいえ。『何も』なんてことは」
そっと目を伏せて頭を振り、青年は「こちらへ来てください」と僕を促した。ついて行くとそこは参列者用の休憩室だった。椅子と机が並び、飲み物と菓子が用意されている。その部屋の一方の壁際にはまた別の机があって、その上には彼が書いた論文を紹介するパネルや写真、著書が整然と置かれていた。故人の人生を紹介するコーナーのようだ。
その一番隅に古びた望遠鏡が飾られていた。古くはあるが、よく手入れされていて使用には全く問題なさそうだ。……それに、僕は見覚えがあった。
「あなたから譲っていただいた物だと聞いています。これがあったから辛い時も頑張れたんだそうです」
青年の声は丸く穏やかだった。その言葉の色に、間接的に何かが見えたような気がした。僕は尋ねた。
「触っても、良いですか?」
僕は自分のマンションに戻ってきた。荷物を置き、黒のネクタイを緩めて外すないなや、冷蔵庫から缶ビールを出して開けて一気に煽った。炭酸が喉をチクチクと刺激してホップの苦みが口いっぱいに広がる。今の時期、普段なら風呂上がりにしか飲まないものだったが、とにかく今はこれが無ければとてもやっていけない気分だった。空になった缶をぐしゃりと握り潰してごみ箱に放り込み、もう一本、と思ったところで、さっき部屋の隅に置いたものに目が行く。
あの望遠鏡だ。
使い方の分かる方に貰っていただきたいんです。お願いします。彼の息子にそう乞われて、遺品として受け取ってきたのだ。
「何だか、不思議だ……」
思い付き、組み立てて三脚に乗せてみた。幾つか細かい傷はあるが表面は滑らか、レンズにも曇りは一切ない。あれから何十年もの長い時間が流れたなんて、まるで嘘みたいだ。
窓の外を見やる。ゆっくりと日が沈んで深い藍色をした夕闇のヴェールが柔らかく東から迫ってくる。ふと思いついて僕はベランダに望遠鏡を出し、寒空へ向けた。横に椅子を二つ並べて、一つには自分が座り、もう一つには彼が書いた本を一冊乗せた。
「なんで、だろうな」
呟いて天を仰ぐ。周りをビルに囲まれて空は驚くほどに狭く、夜は本当に夜なのか疑いたくなるほど明るくざわめいている。昔暮らしてたあの田舎のような満天の星空は望むべくもない。
「僕は、君が憧れるような人間じゃなかった。なのになぜ、君は……?」
ずっと僕を追いかけていた? むしろ憧れ追いかけていたのは、僕なのに。
その時。静かな風が吹いた。椅子に置いた本がぱらぱらとめくれて、あるページを開いて止まった。僕は何気なく、その部分に目を走らせた。
それは巻末のインタビューページで、彼が学者を志した理由について話している部分だった。
「子供の頃にお世話になった人が言っていたんです。『自ら輝く星もそうでない星も、全て違っていて綺麗だ』と。『綺麗』というのは一体何だろうとずっと興味が尽きなくて、知りたくてこの道に進みました。今では『綺麗』というのは『存在する』という事象そのものなのではないかと思っています。観測を続けていると……」
読んで、あっ、と唇から声が零れた。これは僕が言った事だ。気付くと同時に突然、周囲の空気がふわりと温かなものに変わった。今の時期にはありえない、夕立後の土や緑の匂いや蚊取り線香の白い煙が鼻をくすぐり、優しく可愛らしい声が僕の頭の中に響いた。
《あなたがいてくれた。それだけで嬉しかった。だから、あなたを追いかけたんだ》
驚きに顔を上げると望遠鏡の隣に、幻のように小さな子供の姿の彼が立っていた。彼は、まるではにかんでいるかのように頬を赤く染めながら笑っていた。
《今までずっと、ありがとう》
「――!」
僕は椅子から立ち上がって彼の名前を呼んだ。立った勢いで椅子はガシャン! と大きな音を立てて後ろに倒れて、同時に彼の姿は唐突にかき消えた。温かい空気も懐かしい匂いも、身を切るような冬の空気に取って代わられ、急に階下の街のざわめきや走るトラックの音が大きく響いてきた。
僕は暫くそのまま立ち尽くしていたが、思い直し、おもむろに椅子を直してもう一度座った。
「……そうだったんだな」
僕がそこにいて、彼もそこにいた。隣にいるのが嬉しかった。それだけで良かった。
僕は頷くと空を仰いだ。街の灯にもかき消されない明るい星が二つ、並んで静かに瞬いている。
また天体観測を始めようか。いつか彼にまた会えた時に沢山笑って話が出来るように。僕は望遠鏡を撫でながらそんなことを思い、二つの星を見上げ続けた。
夜は、ゆっくりと更けていった。