虹色鉱石
見慣れた横顔
リューンの郊外に建つ小さな冒険者の宿、『微睡む青龍亭』。
その宿の一室で、一人の若い冒険者が懸命に戦っていた。戦う相手は……。
「あーっ、もう無理!」
彼女は、そう一声叫んで持っていた紙の束を背後に放り投げた。束ねていた紐が空中で解け、紙はばさばさ床に落ちた。そのどれにも数字がみっしりと書かれている。
「また合計が合わない! もう何回目よ! それに、今月も赤字確定だしっ」
そう。彼女はある冒険者パーティーの財務担当だった。戦う相手は万年貧乏な経済状況。いくら働いても入った傍からなんやかんやで銀貨は出ていってしまい、全然手元に残らない。
「また親父さんにツケ払えって言われるかしら。……ヤダなぁ」
呟きながら冒険者は書き物机に突っ伏した。手にしている羽ペンの羽部分でインク瓶の蓋をぺんぺんと叩いた。ガラス瓶の中で紺碧色のインクがゆらめき、彼女は、はぁ、とため息を吐いた。体を起こす。
「……でも……今まで六人誰も欠けずにやってこれてるだけ幸せなのかな……。うん、そうだわ、そう思うことにする!」
そう言って、彼女は部屋の姿見――ここは宿の二階、彼女の私室だ――を見た。柔らかく波打つ見事な赤毛に、意志の強そうな同じ色の瞳。何度も同性に『あなたが男性だったら良かったのに』と言わしめた、きりりとした顔立ちが映る。そんな鏡の中の彼女は小さく口角を上げた表情を作り、それから何かを思いついたようにぱっと顔を輝かせた。
「そうだわ! 確か彼も今日は休みのはずだし、計算を手伝って貰おう! 良い考え!」
彼女は床に散らばった羊皮紙を拾い集めて綺麗に束ね直して手に抱え、部屋を出て宿の一階の酒場への階段をとんとんと降りていった。
宿一階の酒場には、昼下がりの時間帯ということもあり、客の姿は殆ど無かった。カウンター席に一人だけぽつんと、空色のふわふわした髪の少年が座っているだけだ。その子供は彼女の姿を見るとにっこり破顔して片手を上げて大きく振った。
「あっ、ルビニだー! ねぇねぇこっち来て来て!」
ルビニ、と呼ばれた彼女は少年の周囲をきょろきょろと見回した。彼女が探している人物は、この少年とよく行動を共にしている。一緒にいないかと思ったが、少年は今一人だけでいるらしい。近づくと、彼は細い縦長の瞳孔の、金色の目をまん丸に大きくしてルビニを見上げた。彼の服の下から覗く、青緑の鱗に覆われた爬虫類めいた長く太い尾は、興奮冷めやらずといった様子でぶんぶんと大きく揺れている。
「ルビニっ、聞いて聞いて! 今ね、親父さんとタルクとがね、奥の台所で酒場の新メニュー試しにいっぱい作ってるの。それでね、お腹空いてたら、ぜ・ん・ぶ! 食べて良いんだって! しかもタダで! 凄いでしょー!」
「ああ……」
ルビニは小さくため息を吐いた。なるほど。この少年……クォーという名前で、彼女のパーティーの一員で、人型に化けている竜である……は、この宿の主人の料理開発に付き合わされているようだ。彼はその小さな体躯からは想像出来ぬ程の大食漢で、おそらくは失敗料理を処分する為に呼ばれている。彼は人の味覚では到底受け入れられないものでも平気で美味しく食べてしまうから。
因みに彼の話に出てきていたタルクも、同じく仲間で、料理上手の大男だ。こちらは調理要因として手伝いさせられているのだろう。多分、手伝ったらツケを減らすとか何とか言われて。
「ね、お腹空いてる? もうすぐ試作一号が出来上がるんだって! 一緒に食べようよー」
クォーは相変わらず目をキラキラさせてこちらを見てくる。ルビニはカウンターの奥の厨房の方へ視線をやった。中の様子は扉に阻まれて見えないが、確かに何か調理をしているらしい香ばしい匂いが感じられた。だが生憎と、昼食をとってからさほど間が開いていない為に食欲は全く湧かなかった。それに今は彼を探している最中だ。
「それがね、残念だけどお昼ご飯沢山食べたから、まだお腹空いてないの」
しきりに誘ってくるクォーを片手で押しとどめながらルビニは答え、そして質問をした。
「クォー、エレミアがどこにいるか知らない? ちょっと彼に用があるの」
「エレミアー? ……んーとね」
クォーは目をぱちぱちさせた。首をこてんと大げさに傾げ、考えるような表情をすること数秒。それからぽんと手を打って、にこっと笑った。
「思い出した! ほら、こないだ一緒に仕事したパーティーの魔術師さんがね、エレミアが読みたい本を持ってたんだって。それでね、今朝、それ貸して貰うって言ってたんだー。で、お昼過ぎに分厚い本何冊か持って帰ってきてたからー、自分の部屋でそれ読んでるんじゃないかなぁ」
「自分の部屋で、読書してるのね?」
子供っぽく間延びしたクォーの説明を要約する。クォーは頷いた。
「多分ねー」
「うんありがと。部屋に行ってみる」
「いってらっしゃーい。お腹空いたらエレミアも誘っておいでねー」
ルビニはくるりと踵を返して、元来た二階への階段へと戻った。クォーはそんな彼女にまた手を振ってにこにこ見送った。
「……エレミアの部屋、かぁ……」
ルビニは、宿所属の冒険者達の個室がある二階に戻ってきた。自分の部屋と同じ廊下添いの、目的の部屋の前に立った。ドアをノックしようとして手を止め、ごくりと唾を飲み込む。胸が高鳴る。手に汗をかいているのが分かる。――自分は、どうしようもなく緊張している。
「ちょっとだけ入ったことあるけど、あの時は他の皆も一緒だったし……独りで来るのは、そう言えば初めてね……」
緊張の理由は簡単だ。彼が、好きだから。そしてそれに彼が全く気付いていないから。
「『帳簿の計算合わないから手伝って』って理由つけたら二人きりで話が出来る……。思いついた時は、良い考えだって思ったけど……。ううっ、彼の部屋に行くことになるなんて……緊張するわ……」
彼女は暫く戸の前をうろうろと歩いた。でもそれで何かが解決される訳ではない。たっぷりと数分迷ってから、この今の状況を誰か他の仲間や当のエレミア本人に見られたら不味いという結論に最終的に達し、ルビニは意を決して部屋の戸を叩いた。
「エレミア、いる?」
裏返りそうな声を努めて押さえ、平静を装い呼びかける。中からの返事は無かった。
「……ねぇ。いないの?」
どんな物音も逃さぬよう耳をそばだてる事、十数秒。しかしやはり、静かだ。再度声をかける。
――また、返事は返って来ない。
「クォーは部屋にいるって言ってたのに。どこかに出かけちゃったのかしら」
ルビニは小さく独り言ちた。今日は、彼にとって本当に久しぶりの、完全に仕事が休みの日だ。何か急な用事が出来て出かけていても何もおかしくはない。
「……いないなら、仕方ないわよね」
ちょっと、二人きりで、すぐ隣で、声が聞けたら嬉しいなって思ったんだけどな。軽い失望と解けた緊張とに小さく息を吐き出す。そして何気なく、ごく軽く、ドアノブを撫でた。
すると。
キィ、と微かな音を立てて、戸がうっすら開いたではないか。
「えっ?」
ルビニは目を丸くした。
「鍵かかってないの? なんで?」
一度収まった動悸が再び激しくなる。普段は部屋にいてもいなくても鍵がかかっているはずなのに。
「かけ忘れたのかしら……」
ここでそっと戸を閉めて何も知らないフリをするのが、仲間としては多分良いのだろう。個人の部屋はプライベートの塊だ。少なくともルビニ自身の部屋はそうだ。勝手に他人に見られたら都合の悪い物の一つや二つくらい、きっとある。でも……。
――エレミアの部屋、見てみたい。
好きな人の、意外な一面。もしかしたら他の誰も知らない秘密。そんなものがこの部屋の中にあるかも知れないではないか!
――少しだけ。ちらっとなら、良いわよね……?
ルビニは思った。そして薄く戸を開けて、その隙間に体を滑り込ませた。
この宿で冒険者一人ひとりに割り当てられた部屋は、さほど広いものではない。一人が寝るのがやっとな大きさの寝台と簡単な書き物が出来る机、それから雑貨を置ける小さな棚を一つ置いたらいっぱいになってしまうくらいのものだ。
ルビニの部屋と同じようにエレミアの部屋もそれ程の広さだった。よって、一目で部屋の中を見渡せた。
「あ……」
部屋に入るなり彼女は思わず小さく声を上げた。部屋の主は留守ではなかった。窓からの優しい日差しが差し込む中、寝台の洗いざらしのシーツの上で仰向けになって静かに目を閉じていた。
口をつぐみ、そっと一歩近づき、よく観察してみる。表情は穏やかで、耳を澄ますと静かな寝息が微かに聞こえた。彼の利き手の人差し指の先は、体の脇に無造作に落ちている分厚い古びた本のページに差し込まれている。読書の途中で眠ってしまったらしい。
びっくりした。鍵もかけずに昼寝だなんて。
胸をなでおろし、再度ぐるりと室内を見る。寝台横の棚の上には、山と積まれた種々の本に混じって、彼愛用の弓矢と短剣とが手入れの道具と共に無造作に置かれている。
エレミアったら。冒険者なのに、しかもあたし達のリーダーなのに、連日の仕事で疲れていたとしても不用心過ぎるわよ。部屋に入ってきたのがあたしじゃなくて物取りか何かで、その人物がもし良くない気でも起こしたら、取り返しのつかないことになってたわ。
心の中で呟きながらルビニはもう一歩、歩みを進めて寝台のすぐ脇に立った。そっと屈み込んで彼の顔を覗き込んだ。
彼は決して、一般的に美しいと言われるような顔立ちはしていない。群衆に紛れてしまうとどこにいるのかすぐに分からなくなりそうな、至って凡庸な容姿の持ち主だ。しかも栗色の癖の強い髪も鈍い砂色をした目も、どちらも特徴としてはごくありふれていて、ルビニの恋心を知る仲間の一人などは『彼のどこが良いのか全く理解出来ない』と彼女の前でのたまった事すらある。
……でも、いいの。
寝台の端に体を預けるようにしてもたれ掛かる。彼が熟睡しているのを確認しつつ、頬に吐息がかかるのを感じられそうな距離まで顔を近づけて、つくづく眺める。
寝顔を見るのは初めてではない。寧ろ見慣れている。仕事に出て野宿ともなれば男も女も関係なく雑魚寝になるのだから。
だが。昼下がりのこんなに明るい部屋の中、眠る彼の横顔を一人きりで見つめたことは、これまで一度だって無い。
ルビニは、ゆっくりと自身の目を細めた。
彼の良さを知っているのは、あたしだけ――。
穏やかさを感じさせるゆったりした弧を描く眉とか。少し小さめだけど形の良い鼻とか。良く通るくっきりと明るい声、珍しい物を見つけるとまるで子供の様に好奇心に輝く瞳、窮地に陥った時に発揮される判断力、困っている人に手を差し伸べずにはいられない優しさ……みんなみんな、好ましくて、綺麗だ。
「ねぇエレミア。あたし、今、嬉しいのよ」
殆ど声に出さずに囁いてみる。
眠り続ける相手から返事はない。ルビニは、エレミアの胸が、呼吸に合わせて規則正しく上下する様子を見やり、それから窓越しの陽光にそっと手をかざした。彼女の指先の形が、彼の瑞々しい頬に影となって落ちる。自分の作り出したものが彼に触れている。自分も彼も、確かにここにいる。
「あなたがいるのが。あなたの傍にいられるのが。……いつまでこうしていられるかは、分からないけれど」
ルビニは、彼に初めて会った時の事を思い出した。まだ小さな子供だった頃、故郷の村の近くの山の中で大怪我をしたところを彼に助けて貰った。正確には、助けられた時には意識が無くて、気が付いた時には自分の部屋のベッドの上で、自分の手を握って泣いている両親とお医者さんの他にもう一人誰か知らないお兄さんがいて、そのお兄さんが彼だった。
エレミアは、変わらないわね……。
ルビニは静かに手を下ろす。外見は全く人間と変わらないが、彼は亜人だ。曰く、エルフの血が濃く入っているので、体の成長速度が普通の人間の五分の一位らしい。だから大人になって偶然に再会した時は本当に驚いた。記憶の中にあった姿と、今の彼と、全くと言って良い程変わっていなかったから。
あたしは、あなたの五倍の速さで歳を取る。あなたから見たら、あたしは人間から見た犬や猫と同じで、あっという間に老いて死んでしまう。
優しく正直なあなたが好きだ。けれど、辛くもある。見ず知らずの子供のあたしを必死になって助けたような、あなただから。
あたしが、あなたを愛していると、人生を共にしたいと口にしたら、きっと困ってしまうだろう。
ルビニはぎゅっと目を瞑った。組んだ自身の腕に顔を押し付けた。
……だから、せめて。今は。
――優しい良い匂いがする。柔らかく温かいものに触れた気がする。
それから。微かに歌が聞こえたような気がした。
いや、気のせいではない。聞こえる。
小声で、彼女の知らない言葉の。楽しそうな特徴あるその声に、覚えがある。
「……エレミア?」
声の主だと思われた人の名前を無意識に呟く。すると歌が止んで、代わりに挨拶が返ってきた。
「おはようございます、ルビニ」
目を開ける。部屋の隅に置かれた書き物机に向かっている相手が、こちらを見てにっこりと笑っていた。
「帳簿の計算、修正出来ましたよ。……今月の赤字は先月より大分抑えられたんですね。色々と大きな出費もあったのに。頑張ってくれたんですね」
砂色の目が微笑んでいる。窓から差し込む、夕日だろうか? 茜色の光が栗色の髪を赤く眩く輝かせている。
エレミアがいる。……おはようございます、って……? あたし、何をしていたんだっけ……?
ぼんやりした頭で半分体を起こして、周りを見る。
本がたくさん詰め込まれた棚がある。エレミアの持ち物があちこちに置かれている。あたしの部屋じゃ、ない……。
そこまで考えが巡って、思い出した。自分は、エレミアの部屋にこっそり入って、寝顔を盗み見て、それから……。
「えっ?! あ? ええっ!!」
ルビニは跳ね起きた。その動きで体にかけられていた毛布が落ちて、自分がエレミアの寝台の上で眠っていた事に気付いた。
「あ、あたしっ、寝てたの?!」
「はい」
顔から火が出るとはこのことか。カッと頬が熱くなる。しかも、寝台の上にいるってことは……。
「なんで、ここでっ?」
「ベッドの端に寄りかかっていて、ちょっと動いたら床に倒れて頭を打ちそうで危なかったので上に引き上げました。冷えるといけませんし」
こともなげに、ニコニコとエレミアは答えた。
引き上げた? さっきまでエレミアが寝ていた場所に? そういえばさっき何だか温かいものに触ったような気がしたけど、それってまさか、抱きかかえられたとか……?
ぐらっと眩暈がした。笑いながら何てことをしてくれるのだろうこの人は! だってそんな……もし、彼があたしを、ヒトの異性として見ているなら、きっとこんなこと出来ない。やっぱり彼にとってあたしは、人にとっての子猫みたいなものなんだ。
でも、でも、異性として見られても困る。だって、あたしは彼みたいに生きられないし……!
驚きと恥ずかしさと困惑とで、激流の様にうねっていた感情を抑え込んでいた堰にヒビが入る。涙が零れそうになって慌てて手の甲で目を擦った。
「大丈夫ですか?」
カタンと椅子を蹴る音がした。彼の気配が近づいてきゅっと手首を掴まれる。その手の熱にびっくりして反射的に顔を上げると心配そうに顔を覗き込んでくる彼の目と、目が合った。
「ふらついてるじゃないですか。顔も赤いし、熱があるんでしょうか? 僕がうっかり寝過ごしてしまって、変な姿勢で長い間待たせたりしたから」
「大丈夫よ! まさかここで寝ちゃうなんて自分でも思ってなかったから、ちょっとびっくりしちゃったの……!」
しどろもどろになりながら答えると、そうですか? と軽く小首を傾げながらエレミアはルビニの手を離した。移動して机上の紙束を手に取ってくるりと振り返る。ルビニが持っていた、パーティーの財務計算のものだ。
「さっきも言いましたけど、計算の修正、終わってますよ。これを直す為に僕の所に来たんでしょう?」
「う、うん。そうだったの。ありがとうエレミア」
いそいそと寝台から下り、紙束を受け取る。エレミアはふわっと笑って部屋の出口の戸に向かって一歩踏み出す。すれ違いざまにごく微かに、森の緑に似た彼の匂いが鼻をくすぐる。
「ルビニ。そろそろ下の酒場へ行きましょう? 夕飯を食べに皆が戻ってくる時間ですよ」
ドアノブに手をかけて彼は自分を呼ぶ。その見慣れた横顔に息が詰まりそうになる。
――けれど、
ルビニも笑う。頷く。
彼の声に、表情に、眼差しに、行動に。胸の内が酷くかき乱される時もあるけれど。
「そうね、もう夕方だものね。お腹が空いたわ」
「夕飯のメニュー、僕達の好きなものだと良いですね。エールもついてたらなお嬉しいです」
「本当に!」
――やっぱり、今はただ近くで、他愛無い話が出来る幸せを噛み締めたい。
ルビニは、エレミアが開けた戸を彼と一緒にくぐり、階下へ続く階段を下りていった。