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命綱

 

 ――綺麗に、美味そうに食べる、お前を見ているのが好きだ。

 

 「ただいま」

 小さな囁きと共に、きぃ、と軋む音を立てて冒険者酒場の扉が開いた。ひんやりとして少し水気を含んだ夜の空気と共に人影がひとつ、するりと室内に滑り込んでくる。

 「おかえり」

 その様を見ながらごく普通の大きさの声で、俺は声に答えた。すると、くすんだ茶色の外套とこれまた地味な鼠色のローブに身を包んだその人物は、びっくりした顔をしてこっち――明かりの一つもついていない、闇に包まれた酒場のカウンターの中――に顔を向けた。僅かに赤みを帯びた金髪から垣間見えるハシバミ色の目は見事にまん丸だった。してやったり。俺は笑った。

 「あはは! ルゥ、良い顔だ! 豆鉄砲でも食らったみたいな」

 すると相手、俺の友人のルーファスは、憮然とした表情をした。瞬きをしてから軽く息を吐きだした。

 「相変わらず子供っぽい悪戯が好きだな、レジー」

 彼は、ゆっくりと俺のいる方向へ体を向ける。俺はそれを横目に見ながらカウンターの燭台に火を灯した。今の俺は夜闇の中でも明かり無しで平気だ。が、あいつは窓からひそやかに差し込む星明りだけでは、俺の体の輪郭くらいしか認識できないだろう。
 その予想は当たっていたようだ。周りが明るくなると、ルーファスはつかつかとカウンターの前にやってきて、夜露に濡れた外套と青い石が付いた長い魔術用の杖を近くの椅子の一つに放るように置いた。その隣の椅子にどさりと腰を下ろし、カウンターに頬杖を突くとじっと俺の顔を見上げた。

 「いると思わなかった。もう真夜中だから」

 「それを眠る必要がない俺に言うのか?」

 「今夜は確か、彼女とデートだったろう? 一晩中外出の予定だったはずじゃ?」

 「……」

 痛いところを突かれた俺が押し黙ると、ルーファスは呆れたように目を逸らした。

 「なんだ。喧嘩したのか。今度の彼女はいつまでもつやら」

 「別れる前提で話するなよ! 今度の子は今までの子と違うんだって! すぐに仲直りしてやるし!」

 そういうところだぞ、という相手の小声を、俺は聞こえていない振りでやりすごした。うん、そうするに限る。
 少しの間沈黙が流れ、それを破ったのはルーファスだった。再び俺の方を不思議そうに見て言う。

 「……と、いうか。何で君、仕事に出てた私の帰りを酒場でわざわざ待ってるんだ?」

 「夕方から今まで一人で悪霊鎮めに行ってたんだろ、お前のことだから飲まず食わずで。――腹減ってるだろ、ルゥ?」

 「確かに少し、空腹だな」

 「急に暇になったからさ。何か簡単なものでも作って気晴らしがしたいんだ」

 立てた親指で肩越しにカウンター奥の食料棚を指す。材料は十二分に揃えてある。

 「宿の親父にここを使う許可は貰ってる。だからルゥ、俺に夜食を作らせろ」

 そう言うと、ルーファスはにっこり破顔した。

 「じゃ、喜んでお言葉に甘えようかな」

 

 こいつは自分で料理をしたがらない。
 でも手先が不器用とか、壊滅的に味音痴とか、どうにもセンスが無いとか、そういうのが理由ではない。
 ルーファスは生まれながらの、本物の死霊術師だ。霊媒体質とか言う奴で、対策を取らないと死んだ奴の声とか感情とか色々なものが自分の中に勝手に流れ込んできてしまうらしい。
 そして「死んだ奴」というのは人間のみに限らない。動物も植物も、命あるものは全部対象になる。
 つまりこいつは、これから調理したり食べたりようとするものの恨み辛み痛みを、全部感じ取れてしまうのだ。
 だから、術を覚えて自衛している今はともかく、子供の頃はもの凄く大変そうだった。まず、苦痛を伴わずに食べられるものが殆ど無い。まともな食事を摂れなくて、本当に生きてるのかどうか怪しいくらいに小さくガリガリに痩せ細っていた。幼馴染なだけで当事者でない俺が言うのもアレだが、よくそれまで死なずに、狂わずにいられたものだと思う。

 

 「ところでレジー。何を作ってくれるんだい?」

 少し気取ったようなルーファスの声で俺は短い物思いから現実に引き戻された。淡褐色の地に緑の火花が散る光彩を燭台の灯に煌めかせながらこっちを見上げてくる様子は、まるで良く人慣れした猫のようだ。

 「昼間に市場で良いハムを仕入れたから、それをたっぷり使ったサンドイッチだ」

 「良いね。チーズとピクルスも追加で」

 「酒も要るよな? 合うワイン適当に見繕って良いか?」

 「それって君が飲みたいだけなんじゃないか?」

 「じゃ、お前の分は水な。俺一人で飲む」

 「ごめんなさい私にもください」

 軽口を叩きながらも俺はさくさくと作業をする。パンにバターとマスタードを塗り、切り分けた食材を挟んでいく。その手元に視線がじっと注がれているのを感じた。

 「……美味しそうだ」

 「お前、さっき『少し』って言ってたのに。実はすげぇ腹ペコだったのか?」

 「食材を目の前にしたら急にお腹が空いてきて」

 「はは。健康的なことで」

 俺は丁寧にパンと具材とを重ねていった。出来上がった層に、さくりとナイフを入れて切り分ける。丁寧に白い皿に盛り付けて目の前のカウンターに、ことりと置く。
 ルーファスは両手の指を組んで合わせ軽く俯いて目を閉じた。それから、俺も良く知る聖北の食前の祈りの言葉を唱え、それからゆっくり目を開いた。

 「いただきます」

 小さいがはっきりとした声で言って、彼はハムサンドに手を伸ばした。俺は棚から選んだワインを木製のコップについで皿の隣に置きつつ、黙って友人の口元を盗み見た。

 ほんのりと赤い唇が開いて、綺麗に並んだ白く鋭そうな歯列が、黄金色のパンと桃色のハムをぷつりと噛み切る。殆ど音を立てずに暫く咀嚼してから飲み込むと、思い出したように口の端に僅かについたマスタードを指先で拭う。それからコップを取って一口ワインを飲んで……。

 「なぁ。私の顔に何かついてるか?」

 ちらっと見るだけのつもりがいつの間にか凝視していたらしい。怪訝な顔でそんな事を言われてしまった。

 「いや、何も」

 俺は自分の分のコップにもワインを注いだ。一息に飲み干して、それから答える。

 「ただ、いつも綺麗に食べるなと思って」

 すると彼は真顔で、

 「零しでもしたら可哀そうだろ?」

 と、言った。

 ――可哀そう。

 その返答に俺はごく小さく首を振った。また、こいつはこんなことを言う。お前おかしいだろ。俺は心の中で悪態をついた。
 パンやハムになった麦や豚にも無意識に情けをかけてるのか。他人の痛みが自分の痛みになるくせに。俺はそこまで考えて、ふと思いついて聞いてみた。

 「そう言えばさ。お前、今日の仕事は首尾よくいったか? 手を焼くようなのはいなかったか?」

 「幸い難しくなかった。悪霊っていうほど悪い子達じゃなかったからな。きちんと話をして納得してもらって、全員ちゃんと『向こう側』へ連れて行ったよ」

 齧られて小さくなったサンドイッチの一切れをぱくんと口に納め、ワインで流し込んでからルーファスはこともなげに答えた。

 「向こう側へ」、「連れて行く」。俺自身の経験からも容易に想像がつく。こいつは迷子の幼子の手を引くかのように、死霊達の手を取って『あの世』の際まで行って戻ってきたのだ。
  やっぱりこいつは相変わらずだ。死んだ者が見えて人ならざる者の声も分かるから、生きている人間とそれ以外の区別が一般人に比べて酷く曖昧……というか「生者」も「死者」もこいつにとっては似たようなもので。

 ……だから、今でも俺を親友と呼んでくれるんだよな。

 黙々と二切れ目のサンドイッチを頬張るルーファスを、俺はじっと見やる。

 俺も死人だ。化け物にもなりかけた。今は見た目も精神も生前とほぼ同じだけれども、それはこいつが調合した薬で誤魔化しているだけで、いつかまた狂ってしまう可能性もゼロではない。
 けれど、そんな危うい俺が触れて作った食い物を、こいつは何でもないように口にする。

 ぱくり、ぺろり。

 二切れ目が完全に口の中に消えた。三切れ目と最後の四切れ目も欠片も残さず腹に納め、コップに残っていたワインもごくごくと綺麗に飲み干す。

 「ああ、食べた食べた。ご馳走様」

 とん、とコップを空の皿の隣に置いて、ルーファスはふうっと息を吐きだした。胃の辺りを右手で摩りながら椅子の背もたれに体重を預けている。俺は皿を引きつつ、聞いてみた。

 「味は?」

 「良かった」

 満足げに目を細め、即答された。

 俺はその表情からそっと視線を外した。隣の椅子が目に入る。かかっている冷たく湿った外套には人生の夕闇が染みついている。立てかけられた杖に嵌められた青い魔石は涙を啜ったかのように薄ぼんやりと濁っている。うら寂しい、あの世のにおいがする。

 お前の娘が攫われた時も、そうだったよな……。

 お前はいつも独りで闇の底まで下りていってしまう。俺に相談の一つも無しに。
 それで、傷だらけになって、冷たい何かの残滓を身にまとわりつかせることになって、なのに静かに笑ってて。
 こいつは馬鹿で阿保で無謀で。それでとんでもなく優しくて。
 ともすれば幻みたいに消えてしまいそうだから。

 だから、言う。

 「ルゥ」

 「ん?」

 「もっと食え。まだ作るから。冒険者に転職して少しはマシになったかと思ったけどさ、そこらの魔術師と比べてもまだかなり細いぞ、お前。背も高くないし」

 「これでも昔より大分肉付きは良くなっただろ。身長は……いくら何でももう伸びないぞ、三十路なんだし」

 「いや、もしかすると、もしかするかも知れないだろ? その方が娘にもモテるだろ?」

 「……君は私に何をさせたいんだ?」

 緑と褐色を混ぜ合わせた、オパールのように曖昧な色の目が疑念を含んでこちらを睨む。俺は素知らぬ顔をして、カウンターの端に置いてあった琥珀色のとろりとした液体が入ったガラスの小瓶を指先でつまみ上げた。唇の両脇をにっ、と持ち上げながら、それを彼に示す。

 「新しく仕入れたメープルシロップの試食。ハムにも合うと思う。甘い奴、好きだろ?」

 「メープルシロップ?」

 ルーファスの声が上擦った。俺はニヤニヤ笑いのまま首を縦に振る。

 「メープルシロップ」

 「ください」

 「よし」

 スライスして一口大に切り分けたパンをキツネ色に炙って、メープルシロップをこれでもかと塗る。ごく薄切りにしたハムと塩気の利いたチーズをたっぷり載せて、仕上げにチャービルを飾った。

 「さぁお客様、どうぞお召し上がりください」

 少しおどけて芝居がかった声と身振りで、俺はお代わりのワインと共に彼の前に新たな料理を差し出す。
 ルーファスは祈りの言葉もそこそこに、嬉々と目を輝かせながら皿からそれを指先で摘み上げた。大きく口を開けて齧りつくと、炙ったパンがかりりと鳴る。零れ落ちそうになるハムやチーズを薄紅色の舌で受け止めつつ、白く細い指先で口内に押し込む。唇と一緒に両目も閉じて、ゆっくりと時間をかけて味わって、飲み込んでから。
 彼はふわっと目を開けて、今日一番の香り立つような笑顔で言った。

 「やっぱり君は最高だよ!」

 その表情で、その言葉で。俺は泣きたいような気持ちになっている自分に気付く。

 ――こいつの命綱になりたい。

 ルーファスが独りでどこか危ない場所へ行くのは、もうしょうがない。こいつは他の誰かに迷惑をかけたくない、一人で片付けられることは自分だけでやりたいと思う性分だし、それに俺達は互いにいい大人だ。大切に思ってるからって干渉し過ぎるのはきっと違う。

 でも、それならせめて。暗い冷たい誰もいない場所で、いよいよもうダメかもとなった時に、俺の料理を思い出して欲しい。
 『あいつのメシがもう一度食べたい』『何としてでも生きて帰ろう』と思って欲しい。

 「……気に入ったんなら、いつでも作ってやるから」

 溢れそうになる感情を努めて押さえながらそう言うと、

 「ああ、頼むよ」

 彼は明るく笑って言った。だから俺も、こいつに負けないように微笑む。

 ――命綱の端を握って。『こちら側』で笑顔で『生きよう』。

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