虹色鉱石
見慣れた横顔 ―another side―
それから。
エレミアは村を出て、ルビニに言ったとおりに冬になる前にリューンを訪れた。
地図に書かれた情報からしてかなり大きな街だろうと思ってはいたが、着いてみると想像以上に広く人も多くて驚いた。そして何よりも信じられないと思ったのが「聖北教会と精霊宮が同じ街の中にある」事だった。
『聖北の教えが信じられてる場所で、堂々と精霊を祀ってる!』
どちらもかなり立派な造りの建物で人々の信仰を集めているのが容易に想像出来た。しかも各々の場所で祈っている人々の顔ぶれが、今まで見た村や町とは違っていた。人間以外の種族がちらほら混じっているのだ。エルフやドワーフといった亜人から、一目で人間ではないと分かる獣人やリザードマンもいる。それから見た目は人間なのに明らかに纏う空気が人ではない者もいた。あれは多分、吸血鬼とか天使とか、そういう強い力を持った何かだ。でもそれを誰も見咎める様子が無い。表面上だけかも知れないが全く気にしていない風なのだ。
凄い……こんな街があったんだ……!
興奮冷めやらぬ中、食事をしようとふらっと入った小さな酒場でエレミアはまた見たことが無いものを見つけた。仕事を依頼する旨が書かれた張り紙が壁一面に張られていたのだ。
これは何ですか? 出されたシチューを口に運びながら、酒場の主人――気の良さそうな、見事な禿頭の男性だった――に尋ねると、それは『冒険者』と呼ばれる職業の人々に向けたものだ、と教えられた。
「冒険者、ですか?」
「そうだ。……平たく言えば何でも屋だな。買い物や宅配、薬草採取から、商人や要人の護衛、町の警備。古代遺跡調査に妖魔の退治。相応の金額を積めば何でもやる、そういう職業さ」
「こんなに沢山仕事があるんですね」
「斡旋出来そうなのがまるっきり無い日も時々あるがね。ここ何日か、いつも細々した仕事を片付けてくれる奴等が遠出の仕事やら個人的な用事やらで出払っててね、依頼が溜まってるのさ。……ふむ。お前さん見たところ弓使いだな? 仕事探してるんなら試しに何かやってみないかい?」
その言葉をきっかけに、エレミアは一つ小さな仕事をした。畑を荒らすイノシシを追い払って欲しいというもので大して難しくは無かったが、終わると依頼人にいたく感謝され、きちんと謝礼も支払われた。
彼はそれからも同じような仕事を見つけては受けた。冬を越すお金を貯める為にと初めは思っていたが、続けるうちにそれは習慣に似たものになった。顔見知りも増えて複数人でする仕事に参加する機会も多くなった。そうやって気付けば何年も経ち、親友と呼べる仲間も出来て、冒険者酒場の二階の宿に個人の部屋を貰うまでになった。
そして、その日。買い物を終えて紙袋片手にリューンの繁華街を一人で歩いていた時。
「エレミア?!」
雑踏の中で突然名前を呼ばれた。知り合いの誰かだろうか? でもこの若い女性の声……聞いたことがあるような無いような……?
不思議に思いながら足を止めて振り返ると、旅装に身を包んだ見事な赤毛の女性と目が合った。小柄なエレミアよりも背が少し高い。整った顔立ちの美人だがその明るい茜色の両目には困惑と驚きが浮かんでいて、白くすらりと形良い指は胸元に下げた古びた銀の聖印を握りしめていた。
――聖印とそれを握る仕草。見覚えがあった。
「ルビニ」
記憶の中にあった名前を口に出すと、懐かしさに顔がほころぶのが分かった。軽く手を掲げて彼女に向かって振る。
「お久しぶりです。足の怪我は良くなったんですね。元気そうで良かったです」
すると相手はゆっくりと頭を振った。風にたなびく雲のようにふわりと揺れる長い髪の間から覗く表情は、信じられないとでも言いたげで、声は少し震えていた。
「嘘……? ほんとに、エレミアなの?」
「そうですよ。――そうだ、立ち話もなんですね、そこのお店で何か飲みながら話しませんか? 奢りますよ?」
人混みの中で突っ立っているのは他の人の通行の妨げになるだろう。すぐ近くに何度も利用したことがあるカフェがあったので誘うと、彼女は黙ってついてきた。空いていた席に着いて店員を呼び各々の飲み物を注文する。その一挙手一投足を訝し気にじっと見つめられているのに気付いて、
「僕、人間じゃないんです」
エレミアはさらりと打ち明けた。
「亜人なんです。成長速度が人間よりうんとゆっくりなので未だにこの見た目なんですよ」
両手を広げてそう言うと目に見えてルビニの態度が変わった。不安げだった目つきが穏やかになり緊張が解けたように見えた。
「そう、だったの……」
「ふふ。全然代り映えしなくて面白くないでしょう?」
店員がやってきて頼んだ飲み物をテーブルに置いていった。エレミアは自分のコーヒーのカップに手を伸ばしかけて、
「ううん。そんなことない!」
妙に力の籠った相手の台詞に目を瞬いた。
「だって。見た目が変わっていたらエレミアだってきっと分からなかったわ。……あたし、ずっと、あなたに会いたかったの。会いたくて、リューンまで来たの」
「え?」
「もう一度話を聞きたかった。小さな村の中にいるだけじゃ絶対分からない事、あなたはいっぱい知っていたわ。世界はとても広くて綺麗なんだって、エレミア、あなたが教えてくれたの」
ルビニは頬を赤くして、エレミアの方へほんの少し身を乗り出した。二人の間のテーブルが微かに揺れてコーヒーの黒い水面に小さなさざ波が立つ。エレミアはそれをちらりと見ながらカップを取った。鼻をくすぐる独特の芳香を暫し楽しんでからゆっくり口を付ける。唇と口内に熱を感じつつ、小さく一口、こくりと飲み込んで、
……苦いなぁ。苦くて少し酸っぱい。
いつもどおりに舌を刺してくるコーヒーの後味に目を細めた。エレミアの目から見る世界は、以前よりはずっとましになったとはいえ、今でも決して綺麗ではない。けれど、彼女がそう思って、そう信じて、自分を訪ねてきてくれたのなら。
それは、美しくて素敵なことだ。
「――君は、綺麗ですね。この世界よりもずっと」
カップをソーサーに静かに置きながら呟くと、ルビニは突然動きを止め、穴が開くかと思われるほどにエレミアを見つめた。良く熟れた馨しいリンゴのように真っ赤な頬をしたままで。
昔の様々な情景を思い出しつつ、エレミアは自分のベッドで眠っているルビニを眺めた。
……あの時は凄く強引だったなぁ。
再会して、二人でカフェに入った時。突然固まって、たっぷり十秒ほど無言になった彼女は、その後急に「あなたと一緒に行く」と言い出した。「今の僕は冒険者です。危険も多いですよ。それに村に帰らなくていいんですか?」そう尋ねたが彼女の意思は変わらなかった。
「元々、村にはもう帰らないつもりで出てきたの。暫くリューンに滞在して、あなたに会えなかったらその後は聖北教の聖地を巡って、それで気が済んだらどこかの修道院で用心棒にでもして貰おうって」
「用心棒? シスターではないのですか?」
「あたし、こう見えて結構強いのよ? 大人になったらあなたみたいに旅人になろうって決めてたから、神聖術だけじゃなくて武術も習ったの。村からここまで、護衛も雇わずに独りで来たのよ? 山賊も出たけど平気だったわ」
そしてその言葉通り、冒険者になったルビニは強かった。ちょっとしたごろつき数人くらいなら、あっという間に独りで叩きのめしてしまうし(エレミアには精霊の支援無しでは難しい)、聖北神に祈りを捧げて仲間達に祝福を授けることもできる。人付き合いも上手で同じ宿の冒険者達にもすぐに受け入れられて馴染んだ。
『でも。無理して冒険者していないか?』
エレミアは自分自身の母語で呟く。ルビニの左手の甲に目をやる。そこにはうっすら赤く肉が盛り上がったように見える箇所があった。仕事の最中に負った怪我の痕だ。
『これだけじゃない。他にも、沢山……』
武術に長けた彼女は仲間の前に立つことが多く、その分怪我も多い。服の下に殆どを隠してはいるが、生き生きとしなやかなその体に沢山の傷跡が刻まれているだろうことを、エレミアは知っている。
『僕を庇った傷も幾つもあるはず。……君は、怖くないのか? 冒険者をしていて本当に幸せなのかい?』
返事は無い。もし彼女が起きていてエレミアの独り言を聞いていたとしても、エルフ語で紡がれたこの問いかけを理解出来ないだろうが――。
エレミアは音も無く両の掌を握りしめた。
ただの仲間の自分が言うのも何だが、ルビニは優しくてしっかり者で、その上美人だ。冒険者などしなくても幸せに生きる道は幾らでもありそうなのに……。
仕事をしていて、武器を手に戦うルビニを見ていると時々無性に恐ろしくなる。もし、敵の刃があと少し早く突き出されていたら? 彼女が振るう槍の突きがほんの瞬きの間遅れていたら? 切り裂かれた彼女の体から真っ赤な血が溢れ、倒れて動かなくなって硬く冷たくなっていく、そんな幻が頭に浮かぶ時がある。さっき指先に感じていた熱が薄れた時と、同じように。
仲間が怪我を負うのを見るのは、嫌だ。中でもとりわけルビニが傷つくのは、目に見えない得体の知れない手に肺を握り潰されたと錯覚しそうな息苦しさがある。
きっと、死にかけているのを一度間近で見ているから、そう感じるんだろうな。
嫌な想像を追い払おうとエレミアはゆっくりと頭を振った。もう一度静かにルビニの寝顔を見やる。見慣れた、綺麗な、柔らかな横顔だ。
『僕の身勝手な願いだけれど……君にはずっと健やかで、出来れば幸せでいて欲しい』
エレミアは呟いてゆっくり微笑んだ。そっとベッドの横から離れて机に向かった。
とりあえず今は出来ることをやろう。彼女の困りごとを一つ解決するとしよう。
彼は椅子に掛けて帳簿の計算式の修正を始めた。窓の外の陽はゆっくりと傾き、静かに穏やかに時間が流れていく。
……彼女が目を覚ますまで、あともう少し。