虹色鉱石
見慣れた横顔 ―another side―
ルビニに初めて会ったのは十年程前。
仲間達に出会い冒険者を名乗るずっと前、故郷を飛び出してからあちらこちらをふらふらと渡り歩いていた時だ。
エレミアはエルフの夫婦の間に人間の容姿で生まれて、故郷では仲間達から蔑まれながら生活していた。エルフとして生きられないなら人間の中で暮らしてみようと森を出たまでは良かったが、言語も文化も全く違ってとても苦労した。やっとのことで定住させてくれる村を見つけて言葉とマナーを覚えると、次に直面したのは寿命の差だった。「村に来て何年も経つのに背も伸びないし髭も生えない。おかしい」「ずっと若いままの姿でいるなんて悪魔か何かと契約しているんじゃないか」そんな疑いをかけられて殺されそうになった。恐ろしくなって逃げて、逃げ続けて、自分の居場所はこの世のどこにも無いのではないかと思い始めた、そんな頃だった。
今夜は人のいる場所で休みたい……。
元々、森を歩くのも野宿も慣れているエレミアだったが、野の獣や妖魔を警戒しながら独りで夜眠るのが連日続くのは辛かった。地図で人里を探して、その日見つけたのが、ルビニが暮らしていた山間の小さな村だった。
『村の規模からして宿は無いだろうな。どこかに泊めて貰えれば良いんだけど……』
村に着いたのは、夕焼けの赤い光が消え暗闇に置き換わる頃合いだった。独り言を呟きながら人気のない薄暗い通りを村の中心と思われる方向に向かって歩く。程なく小さな鐘楼が薄暗がりの中に見えてきた。
聖北教会……。
何軒もの家に囲まれるように建つ、鐘楼を抱く建物外壁の、素朴ではあるが特徴的な装飾を見ながらエレミアはごくりと唾を飲み込んだ。
この辺りで広く信仰されている聖北の教えを、エレミアは信じていない。いや、信じていないと言うと若干の語弊がある。彼は、大抵のエルフがそうであるように、精霊と交信が出来て聖北の神に対して思うところが何も無いだけだ。ところが神を信じる者達から見れば怪しい霊と言葉を交わす彼は排除すべき異端そのもの。過激な信者に追い立てられることも良くあり、その頃の彼は聖北教会を見ると反射的に警戒してしまっていた。
でも、教会は旅人には結構親切なんだよなぁ……。精霊術師とバレなければ泊めて貰えるかも。
意を決して礼拝堂の前に立つ。扉を叩こうと手を上げたその時、内側で複数人の騒がしい声がした。慌てて数歩後ずさると勢いよく扉が開き、僧服を着た若い男性と彼よりは歳の行った男女が数人出てきた。外へ駆けだそうとする若い男性を、その他の数人が必死に止めようとしているように見える。
「な、司祭様。気持ちは分かるが後は山に慣れてるもんに任せてくだせえ。あなた様はお子と皆の無事を祈っててくだされば、それで十分でさ」
一番年かさの男が、司祭様と呼ばれた若い男の肩にぐっと手をかける。司祭は目を瞑り、ふるふると大きく頭を振った。
「いや、それでも、私は……」
「あの。すみません!」
その様子を間近に見ながらエレミアは彼らに向かって、共通語で声を張り上げた。司祭とその他数人は、エレミアがそこにいるとは夢にも思っていなかったのだろう、ぴたりと動きを止めて豆鉄砲を食らった鳩の様に彼を見つめた。
「……どなたですか?」
ややあってから、司祭が訝し気に言った。エレミアは、出来るだけ無害に見えるように穏やかな表情を作って彼に丁寧に話しかけた。
「お忙しい所申し訳ありません。僕は旅の者です。宿場町に着く前に日が暮れてしまい困っています。どうか一晩、風や夜露をしのげる場所をお貸しいただけないでしょうか」
すると、相手は目を見開いて食い入るようにエレミアを見た。両腕を鷲掴みにされて強く揺さぶられた。
「旅人? 裏の山を越えていらしたのですかっ?」
「ち、違います! そこの沢沿いの道を上ってきたんです!」
鬼気迫る相手の様子に叫びそうになったのを堪えつつ、今しがた歩いてきた道を視線で示しながら何とか答える。彼は手を放してがっくりと項垂れた。
「そう、ですか……」
「何かあったんですか?」
掴まれた腕をさすりながら尋ねると、黙り込んでしまった司祭の代わりに年かさの男が肩をすくめながら答えた。
「今朝、山にクルミ拾いに出かけた司祭様のお子さんがな、この時間になってもまだ戻らんのよ。夜になると狼も出るしな、危ないから探すのは猟師連中に任せなって言ってるんだが……」
「狼が出る山に?」
エレミアはさっと目を走らせて若い司祭の全身を観察した。背は高いが服から覗く首筋や手首の線はほっそりとしていて、筋肉がついているようには見えない。体を動かすのは苦手、夜の山に入るのは厳しいだろうとエレミアは思った。
「それは心配ですね」
社交辞令のつもりで、眉と声とをひそめて言う。するとその場にいた恰幅のいい中年女性が、エレミアの背負っている荷物――正確には、括りつけてあったショートボウを指さして声を上げた。
「ねぇ、あなた弓使えるの? もしかして猟師?」
「猟師ではありませんが、故郷にいた頃は狩りをして家計の足しにしていたことはあります」
「じゃあ、山歩きも慣れているんでしょう? お願い、少しだけでも良いの。ルビニちゃんを探すのを手伝って! そしたら私の家に泊めてあげるわ! ご飯もつけるから!」
『……引き受けてしまった……』
日がな一日歩いた後だというのに我ながら単純だ。短剣と弓矢を手に、小鳥の姿に具現化した光の精霊フォウを供に連れて、村の裏山に下草を踏み分け入りながらエレミアは独り微笑んだ。
でも、手伝えばタダで温かい食事にありつけて屋根のある場所で眠れる。そこまで悪い話ではない。
『でも夜になっても戻らないって、何があったんだろう』
行く手を遮る低木の枝を短剣で払う。暗闇の中、頭の中で可能性を指折り数える。
『一、自分の意思で村から逃げた。二、人攫いに遭った。三、獣に襲われた。四、沢で溺れた。あとは……』
ゆっくりと出来るだけ音を立てないように歩いていく。捜索対象のルビニという女の子は今年で八歳。父親である司祭や村の人の話によれば、明るくて活発な、とても可愛い子らしい。
『この年齢だと勝手に村を出るのは考えにくいし、人攫いか事故……。部外者の目立つ山村で人攫いは目撃された時のリスクが大きいから……うん、やっぱり事故の確率が一番高そうだ』
ロクに道の無い坂を上り切る。息を切らして立ち止まる。上を見上げてみる。フォウを飛ばしてみても、鬱蒼と茂る木々の枝葉に邪魔されて空は殆ど見えない。冷たい夜風が吹いてざわざわと鳴って、狼の遠吠えが聞こえた。
『狼、やっぱりいるのか。遭遇しなければいいんだけど』
体がどうしようもなく震えだしたので、戻ってきて肩で翼を休めているフォウを撫でた。疲れで湧きだした恐怖が少し薄れて元気が出てくる。
『もう少しだけ探して、それで見つからなければ一度戻ろう』
光精にむかって言いながら元来た道を戻ろうとしたその時。
【――……!】
ふいに声が聞こえた。背後から、何者かの不明瞭な言葉が。
『え?』
振り返る。フォウを向かわせ闇に目を凝らす。誰もいない。全身の感覚を研ぎ澄ましても何の気配も感じない。困ってフォウに、ちらと目をやると、光精はこちらを見返しつつ小さく首を傾げた。自分じゃない、とでも言いたげな仕草だ。
『誰だ……?』
短剣を抜いて構えつつ、じりじりと、声がしたと思った方向へ歩を進める。すると、唐突に、
『わっ!』
右足が宙に浮いた。踏み出した先に地面がなかったのだ。後ろに跳ぶ時のように咄嗟に左足に力を込める。派手に尻もちをついたが落ちるのは免れた。
『地面が無い? ……穴?』
フォウに周囲を照らす光を強くするように命じる。両手で茂る草やシダの類をかき分けると、思った通りに直径がエレミアの身長程もある大きな穴が見つかった。
『なんでこんな場所に?』
山の地下に空洞でもあるのだろうか? それの入口? 首を伸ばして中を覗いて、エレミアは、ひゅっ、と息を吞んだ。
視界に見えたのは青白い肌の華奢な手足と、赤黒いものでべとべとに汚れた小さな人間の子供の顔。
この子は……!
少しだけ身を乗り出す。むっとする鉄臭い匂いが鼻を突いたが他に怪しい臭気はしない。毒ガス等は溜まっていないだろう。縁に手をかけて穴の中に飛び降りる。
穴の深さは、これまたエレミアの身長より少し深い程度だった。よく見れば穴の底には朽ちかけた鉄の杭のようなものが何本も転がっている。杭の端は尖っていて、これが錆びていなかった頃は穴の中に真っすぐ立てて並べられていたと想像出来た。大型の獣や妖魔、そういうものを退治する為の落とし穴。使われなくなったのに埋められるのを忘れられた。多分これはそんなものなのだろう。
でも、今はそれよりも。
身を屈めて穴の底に倒れていた子供に手を伸ばす。村で聞かされたのと同じに見える服装の、赤い髪の女の子。左腿に鉄の杭が刺さっていて血で服がぐっしょりと濡れている。首筋を撫でると脈が触れた。しかし、その肌は酷く冷たい。
これは厳しいかも知れない。
狩りをする――鳥や獣の命を沢山奪ってきたから分かる。血が流れ過ぎて体温を保てなくなっている。こうなっては手を尽くしても助かるかどうか怪しい。今すぐに連れ帰っても……間に合うかどうか。
とにかく、これ以上の失血は防がないと。
自分のシャツの裾を破って紐のようにして、それで足の付け根をきつく縛る。それが刺激になったのか彼女は薄っすらと瞼を開いた。
「……」
――が、もう物が見えていないのだろう。エレミアの方ではなく、何も無い暗闇を虚ろに見上げている。そんな彼女の唇が僅かに震えた。微かな言葉が彼の耳を打った。
「……かみさま、おねがい、します」
例えるなら、火を吹き消された蝋燭から立ち上る一筋の白煙の様な声だった。ほんの些細な空気の揺らぎにもかき消されてしまいそうな。
「ずっと、いいこで、います……だか、ら……まだ……」
彼女の手元に目を落とすと、白くて小さな血濡れの指が銀色の聖印を握っていた。
エレミアは鋭く息を吐いた。外套を脱いで小さな体を包んで、そっと抱き上げる。
『僕は、君の神様じゃない』
手を伸ばして穴から這い上がる。麓の村に向かって駆け出した。
『でも、出来るだけの事は……したいんだ』